はじめに 木造彫刻は大別すると仏像彫刻と神社仏閣等建造物に施された装飾彫刻がある。 前者は奈良、鎌倉時代に隆盛し後者は徳川時代に多く傑作が遺された。 個人所蔵のものも相当現存するがここでは数点に限りネット掲載し、 三条市内に遺されている作品のうち以下のものがある。
(1)法華宗総本山である長久山本成寺に関わるもの蓮如院は酒井家(雲蝶の養子先)の菩提寺であり、雲蝶の位牌が安置されている。位牌に見守られているように、 「柿の実を持つ猿」の置物がある。木の股に腰かけて、柿を口にほうばり、右手に柿を持って見あげている姿は、 いたずら盛りの子猿だろうか、微笑えましく、雲蝶の温かい心情が感じられる傑作である。柿の実は今は無くなり、代わりに数珠を持たされたという。 猿の置物は子供がオモチャにして遊んでいるうちに、どこかに紛失したものと思われる。
②災難を逃れた牛青蓮華院は本山発祥の地に建立され、雲蝶の力作が多くあった。 大正9年火災に遭い、欄間にあった寝牛の彫刻は幸い、転々とした後、本成寺要住院に安置されている。角から尾、足のヒヅメまで、起きて歩きだしそうな気配がする、
③飛龍(ひりゅう)南大門(通称赤門)をくぐると右側に本照院がある。門は大きくないが 歴史と風格を感じる。門柱には一対の「獅子」が彫られ破風板に「龍」が左右4体とりつけている。この龍は体に翼をつけ、 足は鷹の如く「飛龍」である・作られて140余年風雪に耐えて門と院を守ってきた。雲蝶34歳の作である。 本照院左隣の久成院の門は同年代に同じ大工の手による。彫刻も雲蝶作と類推されるが刻銘とうは残っていない。
④鯉にまたがる仙人静明院本堂が平成4年に改修され、向拝の彫刻を調査したところ、鯉に跨る仙人が発見された。 老人が手に持つ「本」に雲蝶の刻銘と制作年月が彫られていた。防虫処理などが施されて新しい向拝に復元され、一般に拝観できることとなった。雲蝶37歳の博識と妙技を感ずる。
静明院の宝物として亀の彫刻が受け継がれてきた。 手の平に乗る亀は、今にも首を上げて歩きだしそうである。顔つきから高羅、踏ん張る手足のたくましさは、生きている様である。雲蝶のノミさばきは真に 名匠にふさわしい。彫刻の裏側には「刻刻主安兵衛,静明院付寶」と記されている。
⑥貫主室に安置される赤牛明治26年の火災で本堂や納骨堂に遺された雲蝶渾身の彫刻は失われた。 雲蝶没10年後の災難である。長男儀平は父の生きた証にと、手元にあった 「赤牛」を本成寺に託した。今は貫主室に安置されている。「明治10丁△仲冬石川雲蝶」と記されている。また「明治27年12月酒井儀平納之」と記されている。 「牛」は頭をあげ耳をそばめて本成寺を見守っているようだ。
⑦が遺した白牛雲蝶の彫った白牛は火災で焼失した。牛の間に置かれている大牛(143センチ)は腕の立つ弟子の久助と俊之助が雲蝶の牛を模して彫ったと伝えられている。 青蓮華の絵を背にして横たわる白牛は、本山の象徴であろうか。
神社は、旧栄町吉野屋地区の小高い山頂に杉木立に囲まれて鎮座する。
地域の人々は「吉野屋の権現様」と親しみを込めて呼んでいる。
主神は伊須留伎比古命で医薬の神として広く信仰を集めている。
延歴3年(784)に能登国(石川県鹿島郡中能登町)石動山天平寺(せきどうさんてんぴょうじ)から勧請された。
麓の御堂ケ原にあった社は元禄11年(1698)に山頂へ遷座された。
拝殿は明治元年(1868)に焼失、同5年再建され今日に至っている。
再建は地元の大工棟梁松尾嘉治の建物と石川雲蝶の彫刻で飾らている。
建物と彫刻は計画的に同時施工されたため、一体感のある見事な社である。
雲蝶54歳から58歳、晩年の心血を注いだ遺作である。
雲蝶の彫刻は三条市指定文化財である。
向拝を彩り神社を火災から守るため雲蝶祈りを込めた魂身の作である。 今にも水を吹き、踊りだしそうな竜と獅子頭である。 波間に施された鯉と亀の隠し彫りは雲蝶のユーモアな人柄が感じられて心なごむ。
⑨神功皇后と竹内宿禰回廊右側障子、14代仲哀天皇の妃が我子に授乳をしている珍しい彫刻である。 親子の情愛に満ちた眼差しを見守る竹内宿禰の構成が見事。
⑩加藤清正海外出兵の図左側障子に鎧兜の勇壮な姿、欅板に記され加藤清正△の名称と雲蝶の刻銘は鮮やかな一刀彫と思われる。
⑪正面欄間を飾る4面の彫刻右側には「ヌイ退治」の図で源頼政が空想の動物{ヌイ}を3本の矢を放って退治する場面。
正面中央2面は「大蜘蛛退治」の彫刻で、源頼光が四天王と共に退治する図である。
左側は俵藤太(本名藤原秀郷)が大百足退治を懇願されている彫り物である。
欄間はいずれも物語の世界を雲蝶の創造力、企画力を存分に発揮した繊細かつ力強い作品である。
ライトアップすると彫りの明暗、深さがよくわかる。
拝殿の彫刻は彩色されず木質を知り尽くした名匠にふさわしい傑作である。
特に龍と脇障子のケヤキ彫りは立ち神の技であろう。
越後(日本)のミケランジエロと称される由縁だろうか。
なお、格天井画97枚の中3枚が雲蝶の筆による、いずれも色あせて見えない。
唯一、雲蝶名と落款で判断できる。中央には帰山雲涯作の「龍」の墨絵がある。
余談であるが「三条人物伝」に掲載されている「緑川玄三」氏はこれら文化財が朽ちていくことを、
拝殿に座して慨嘆されていたという。
所在地 三条市飯田 拝観自由
五十嵐小文治の伝説で知られ、五十嵐姓発祥の地といわれる。
歌手 故三波春夫(旧姓五十嵐)が、全国五十嵐会々長を務められたこともあった。
五十嵐神社の旧拝殿(社務所として使用)は、昭和36年の第2室戸台風により大杉倒伏のため全壊した。
建物の残骸と一緒に埋められた雲蝶の彫刻の一部が掘り出されて現在の拝殿にある。
カエル股にあった雲蝶の作風である彫刻品が掘り起こされたのである。
内山家三代当主の又蔵は、雲蝶にとって恩人ともいうべき人であった。 お礼として何点か内山家に残されている。
⑮寝牛本成寺と縁の深い「牛」であり、雲蝶還暦の年に彫り刻銘と落款が鮮やかに残る。
⑯「東方朔」仙人漢の武帝に仕えた聖人とも凡人ともいわれた人物を表情豊かに彫っている。背面には、雲蝶の「手形」と彫った年号、匠雲蝶正照の銘と落款が記されている。特別変わった手ではないが、親指以外は少し長いと思われる。何か格別な思いを込めたものだろうか。 東方朔に自身を重ねたものか想像を掻き立てられる。2点共に、黒い輝きがあり気品を伴う名品であろう。
石動神社再建時の大工棟梁松尾嘉治家に寄贈された彫刻。棟梁と寝食を共にして大仕事を成し遂げた仲であった。
その記念に残したものである。
手の平に乗る大きさの「恵比寿天」と、「大黒天」である。福よかな表情で、松尾家の繁栄と息災を見守って来た。
恵比寿天は右手に釣ざお、左腕に大鯛を抱えて、満面笑顔の小形ながら傑作である。木肌が実に美しい。