雲蝶花見酒,石川雲蝶,新潟県三条市, 法華宗総本山本成寺,石動神社の雲蝶の彫刻説明ボランティアガイド,ツアー,雲蝶会

石川雲蝶ひととなり

彫刻師石川雲蝶(いしかわうんちょう)とは

 神仏を敬い、人に愛され、人を愛した雲蝶の伝えられるエピソードは数々あれど、謎の多い不可思議の人物といってもいいだろう。
江戸生まれの雲蝶が雪深い越後で生涯制作に打ち込み、花咲き実を結んだ雲蝶。彼は、作品以外何一つ自身に纏わるものは遺さなかった。

 1814(文化11)年江戸の雑司ケ谷、(現東京都豊島区)鬼子母神祠堂裏手の生まれで、生家は酒屋を営んでいたとも、飾り金具職人とも伝えられている。 石川家の祖は美濃国石川庄の出で、代々美濃屋と称していた。 また石川の姓は同族で徳川家康の四天王の一人で、後に松本城(国宝)を築城した石川数正の同族ということで、石川と名乗った。 また、一説には石川雲蝶が、若くして江戸彫り石川流の奥儀を極め、師と仰ぐ石川周信より石川を名乗ることを許され以後、石川姓を名乗ったとも言われる。 また、師の推挙により、幕府御用勤となり、刻銘を石川安兵衛源雲蝶と“源”の刻銘を使った時代もあったとされる。

  雲蝶の青年期は決して恵まれたものではなかった。 急速に幕府の統率力も財政も衰退の一途をたどり、幕府は水野忠邦を中心とする機構改革、緊縮政策をとり、町民に節約を迫る天保の改革を実施する。 ますます江戸は不景気となり、神社仏閣は立たず、雲蝶の仕事も激減した。

 そこに声をかけたのは三条町金物商三代目内山又造蔵である。内山家は代々又蔵を世襲し,江戸で手広く商いをする金物商であった。 また、当時内山又蔵は本成寺の檀徒総代を務めていた。
 後に「雲蝶の行くところ、牛あり」と言われるが、又蔵が取引先での見事な牛の彫り物と出会い、雲蝶に行き着いた。
「美味しい酒と仕事に欠かせないノミや刃物は、生涯不自由を掛ない、どうか法華宗総本山本成寺の本堂の欄間を彫って欲しい・・・」と、 雲蝶は又蔵の要請を受け、本堂の欄間の天女が舞う姿や、納骨堂の干支などの彫刻に着手する。

 彫刻師としての雲蝶も又蔵が扱う与板のノミや打ち刃物、三条の金物には関心を抱いたとも思われる。 雲蝶自身新天地を求め、又蔵の要請を受け入れ越後路入りをしたと思われる。
佛縁というべきか、人の絆というべきか、こうして越後三条町本成寺に結びついたのである。